人間の記録27 三浦 環
内容構成
【目次】
第一部(リリー・レーマンに憧れて/サー・ヘンリー・ウッドのテスト/ロンドン初出演/私の「蝶々さん」を生む/「お蝶夫人」初舞台/世界無比の「蝶々さん」ほか)
第二部(わが母/病床手記[絶筆])
第三部(三浦環のプロフィール[吉本明光])
(みうら たまき)
1884年(明治17)東京都生まれ
1903年(明治36)日本の初オペラで主役
1907年(明治40)東京音楽学校助教授
1911年(明治44)帝国劇場歌劇部専属技芸員になる
1914年(大正3)ドイツに留学
1935年(昭和10)「蝶々夫人」の上演2000回
1946年(昭和21)62歳で死去
公証人柴田孟甫の長女として生まれますが、兄二人が早世したために大事に育てられ、三歳のときから日本舞踊を、六歳のときから箏と長唄を習い、虎ノ門の女学館に入学します。
そこで東京音楽学校出身の教師・杉浦チカに音楽家になることを強くすすめられ、音楽学校に入学してピアノは滝廉太郎、声楽は幸田延、のちにバイオリンのユンケルに師事しましたが、当時はまだ本格的な声楽を教える教師がいなかったため、発声法を自分で学び工夫しなければなりませんでした。
1903年(明治36)、東京帝国大学、東京美術学校、東京音楽学校の生徒や卒業生たちが、日本で最初のオペラを上演。このとき主役を演じて大成功をおさめ、その後大学に残って演奏活動を続けながら助教授になりますが、声楽家への思いを募らせて1914年(大正3)にドイツに留学します。
その後第一次世界大戦のためロンドンに移りますが、そこで指揮者のウッドに認められ、ヨーロッパでの演奏活動が始まると、ロシア生まれの歌手・ロージンからプッチーニの「蝶々夫人」を依頼され、一ヵ月で初舞台を踏みます。この初演はドイツの飛行船の空襲で中断するというハプニングもありましたが大評判になりました。
「声楽家としての一生の念願が叶ったのだから、晴れの初舞台で死ぬのなら、芸術家の本望だと思いました」(『本書』より)
舞台はアメリカやイタリアでも好評を博し、作曲者のプッチーニに「理想の蝶々さん」と評され、1935年(昭和10)のシチリアで「蝶々夫人」の上演が2000回に達しだのを機に帰国します。
日本では第二次世界大戦によって上演は禁止され、1944年には山中湖畔に疎開し、老母を看取った一年後にがんを病み、その生涯を閉じました。