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日本道徳教育論争史 第II期

日本道徳教育論争史 第II期

修身教育の改革と挫折

 

日本道徳教育論争史 第II期

カタログPDF

監修

貝塚茂樹(武蔵野大学教授)

巻数

全5巻

体裁

A5判・上製・総約3,000頁

本体 揃:94,000円+税
ISBN 978-4-284-30613-3
刊行年

2013年06月刊

近代教育の出発から今日までの道徳教育の歴史と論点を網羅!
「道徳教育」は、どうあるべきか。戦前と戦後の「断絶」を超え、歴史的・学問的に検討するために。

◇おすすめ先◇
教育学(道徳教育、教育史、教育思想)の研究者/倫理学・近代日本思想史・近代史の研究者/公共・大学図書館

 
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特 色

道徳教育はどうあるべきかを学問的・歴史的に検討するために。明治5年の学制公布から、平成初期までの日本の道徳教育の歴史を、トピック別で各巻に集成! 各巻に解説・解題を附す。

第II期では、大正から昭和戦前・戦中期の基本的な文献に加え、図書館にもほとんど所蔵されていない、貴重な資料からの論文も多数収録。著者は約七〇名、論文・資料は約二〇〇点に上る!

大正期から拡大・深化した修身教授改革論は、徐々に戦時体制の理念の中に包括されていく。その課題を直視つつ、改めて修身教育の歴史的定位を実証的に検討する。

各巻構成

第6巻 修身教授改革論の展開
1914-1930年代を中心に、道徳教育としての修身科の役割に着目し、修身教育に対する改革や批判を展開した論考の数々を収載。
●大正新教育運動と修身教授改革論
「修身教授革新論(抄)」小原国芳
「生活化の修身教育(抄)」野瀬寛顕
「修身教育の新体系(抄)」岩瀬六郎
「現代修身教育の概観」松本浩記
「生活修身の新主張」岩瀬六郎
「作業主義の修身教育」渋谷義夫
「生活訓練と道徳教育」野村芳兵衛
「今後の修身教育」野瀬寛顕
「社会的修身教育論」松本浩記
「新教育と修身教育」野村芳兵衛
「徳育について」天野貞祐
「修身指導過程の実践的考察」岩瀬六郎
●澤柳政太郎の修身教授論争と「川井訓導事件」
「修身教授の不成績なる原因」澤柳政太郎
「修身教授は尋常四年より始むべきの論」澤柳政太郎
「初学年修身科教授廃止説に反対す」日田権一
「現行通り初学年より課するを可と信ず」中野明一郎
「澤柳先生の『修身教授を尋四より始むべきの論』を読みて」山崎隆
「澤柳先生の所論に反対す」二神真敬
「澤柳博士の修身科繰り下げ案に反対す」川島庄一郎
「再び修身教授は尋常四学年より始むべきを論ず 反対論者に答ふ」澤柳政太郎
「御尋ねしたいこと、感じたこと」佐々木秀一
「佐々木助教授の質問に答ふ」澤柳政太郎
「疎外せられたる修身科」土屋弼太郎
「視学委員視察当日を顧みて」傳田精爾
「松本女師附属事件考察」西尾実
「山松校長及池原主事訪問記」守屋喜七
「川井訓導の修身教授に対する諸家の意見」三宅雄二郎/澤柳政太郎/古島一雄/阿部次郎/石原謙/岩波茂雄/和辻哲郎/土居光知/篠原助市/興良熊太郎/久保田俊彦/伊藤長七/北澤種一/長田新/太田孝作
「経過と感想」川井清一郎

第7巻 修身教育の実践と国定修身教科書(第三期-第五期)
1930年代を中心に、修身科の実際の授業・指導にあたっての様々な試みと議論、「国体」の強調が顕著になっていく国定教科書の様相を収録。
●修身教授論の諸相
「修身教授の実際的新主張(抄)」川島次郎
「修身及公民教育原論(抄)」野田義夫
「現代修身書の生活化(上)」小林佐源次
「徳育の効果を挙ぐるには何を最も留意すべきか」嘉納治五郎
「我が国徳育の心髄骨子に就いて」井上哲次郎
「現代修身教育の諸相と其の批判」松本浩記
「徳育の更新」原房孝
「新時代に於ける修身教育の指導精神」藤谷保
「道徳教育の革新に就て」吉田熊次
「道徳教育の刷新」河野省三
「修身教育効果の反省―過去の修身教育とその反省―」堀之内恒夫
「徳育に於ける知と行の問題」渋谷義夫
●修身教育の実践と成績考査
「修身教授の方法に関する二三の問題」原房孝
「修身科の成績考査と操行査定に就いて」亘理章三郎
「学業成績並に操行査定の標準」東京府教育研究会
「徳目か人物か」亘理章三郎
「成績考査と操行査定の理論的研究」松原一夫
「修身科教材の類型と指導」堀之内恒夫
「修身科に於ける人物単元の取扱」堀之内恒夫
●資料編
「尋常小学校修身書 巻六(第四課 国交)」文部省
「尋常小学校修身書 巻二(二十一 テンノウヘイカ)」文部省
「ヨイコドモ 下(十 兵タイサンヘ)」文部省
「初等科修身 四(三 青少年学徒のご親閲)」文部省
「国民科修身『ヨイコドモ』編纂趣旨』竹下直之(文部省)
「五、六年修身の取扱ひ方」野瀬寛顕

第8巻 修身教育と公民教育・訓練
1930年代を中心に、1931年に開始された「公民科」と「修身科」の関係を巡る議論と、道徳教育の実践論をめぐる議論を収録。
●修身教育と公民教育
「現代修身教育の根本的省察(抄)」堀之内恒夫
「公民教育と道徳教育」田制佐重
「修身教科書と公民教育 付 尋常小学修身書集成の方針」藤本万治
「公民科と修身科」鹿児島登佐
「公民的陶冶を意図したる修身教育」上村文二郎
「青年学校の修身及公民科に就いて」千葉敬止
「修身科と公民科との関係」萩原拡
「青年学校修身及公民科の取扱いに就いて」山口啓市
「修身科に於ける公民的教材の取扱」田中武夫
「新要目に於ける修・公関係の検討」近藤恭一郎
「修身科と公民科の相関と新要目」伊藤和衛
「修身教材の三分類と公民科との関係」松田克三
「教育使命としての公民科と修身科」加藤良一
「修身科と公民科との統合問題」池岡直孝
「修・公統合論の根拠を観る」近藤恭一郎
「青年学校修身及公民科の重点」鈴木静穂
「公民教育と新道徳原理」早瀬利雄
「強調すべき現時の修身教育・公民教育」島崎晴吉
「青年学校修身及公民科の本質」鹿児島登佐
「修身科公民科の分離統合の問題」草場弘
●修身教育と訓練
「訓練論(抄)」吉田熊次
「説集 修身教授新潮(抄)」近代学術研究会
「生活指導と訓練の新研究(抄)」鹿児島登左
「新日本の修身と訓練(抄)」野瀬寛顕
「修身と生活訓練」塚本清
「修身訓練研究問題の動向」後藤博美
「現代訓練の実際問題」松本浩記
「日本精神と訓練」齋藤富
「日本学より見たる学校訓練の中心問題」小野正康
「生活に基調を置く本校の訓練」国東尋常高等小学校
「訓練の修道院化」坂本駒夫
「修身科に於ける生活指導」向井繁雄

第9巻 修身教育と宗教教育
1930-1935年ごろを中心に、道徳教育と宗教との関係、また道徳教育の基盤となる宗教的情操の涵養に関する論考の数々を収載。
●宗教教育論の展開
「宗教と教育(抄)」姉崎正治
「宗教と教育の関係」吉田熊次
「宗教と教育」三宅雄次郎
「宗教と教育」加藤弘之
「宗教と教育」大島正徳
「宗教々育論の経過」谷本富
「宗教と教育」高楠順次郎
「普通教育と宗教」新渡戸稲造
「学校教育と宗教の関係」加藤末吉
「国家教育と宗教」岡田良平
「宗教と教育の関係」成瀬仁蔵
「宗教と教育」松本文三郎
「道徳と宗教」吉田静致
「児童宗教教育(抄)」関寛之
「宗教々育論(教育より宗教への問題)」福島政雄
「宗教々育の目的に関する一考察」大村桂厳
「宗教々育の本義」谷本富
「宗教と教育」藤井健治郎
「宗教教育の真諦(抄)」谷本富
「学校に於ける宗教教育」佐々木秀一
「修身教育と宗教」野田義夫
「宗教と教育との関係」澤柳政太郎
「宗教と教育」澤柳政太郎
「教育と宗教」関屋龍吉
「宗教教育は如何にすれば可能なるか」海老名弾正
「嵐の中の宗教々育」赤井米吉
「宗教教育の意義とその限界」友枝高彦
「宗教教育論」今岡信一良
「宗教教育の本質」三木省巳
●学校教育と「宗教的情操」
「我が国民教育と其宗教的心情」加藤玄智
「教育勅語と日本人の国民的宗教情操」加藤玄智
「宗教々育の原理と実践」松本浩記
「修身教育に於ける宗教的陶冶」熊井甚太郎
「宗教的情操の意義と国民教育」長谷川如是閑
「答申を診断する」野島舜三郎
「教育と宗教の本質的関係」吉田熊次
「宗教教育答申案及通牒について」入澤宗壽
「我が宗教々育の歴史的考察」入澤宗壽
「道徳教育と宗教的情操教育」河野省三
「学校徳育と宗教教育」萩原拡
●資料編
「宗教的情操の涵養に関する留意事項(文部次官通牒発普第一六〇号)」文部省

第10巻 日本精神・皇国民の練成と国民道徳
修身科は、政治的な目的を反映しやすいという問題を内在していた。1928?1943年ごろを中心に、国家・国民意識の形成に関する論考の数々を収載。
●日本精神論の展開
「日本教育学(抄)」近藤寿治
「日本倫理と日本精神(抄)」深作安文
「教育的皇道倫理学(抄)」吉田熊次
「我が国民精神の特色」井上哲次郎
「国家思想と学校教育」吉田熊次
「現代学生とマルクス主義」河合栄次郎
「国民精神とは何乎」谷本富
「神ながらの道と徳育」井上哲次郎
「日本精神の検討」河野省三
「国民道徳か皇道か(「皇道」及び「日本道徳」説の提唱)」萩原拡
「日本精神の本質」徳富猪一郎(蘇峰)
「国体精神と修身教育」原房孝
「修身教育と国体の明徴」熊井甚太郎
「『国体の本義』」佐佐木秀一
「国民道徳論と国体論」西晋一郎
「皇国の道」伊東延吉
「臣民の道について」近藤寿治
●国民学校と修身教育
「青少年学徒に下し賜はりたる勅語」佐々木秀一
「教育勅語の「斯ノ道」と国民学校教育本旨の「皇国ノ道ニ則リ」云々との連関を中心問題として」小野正康
「教育に関する勅語と国民学校」原房孝
「国民学校の特質と修身教育の地位」堀之内恒夫
「国民学校の精神に就いて」伊東延吉
「行の教育形態―初等教育への一試論」宮坂哲文
●資料編
「国体の本義(抄)」文部省
「臣民の道(抄)」文部省
「錬成の本義について」国民錬成所

刊行のことば

貝塚茂樹(武蔵野大学教授)
 教育における戦前と戦後の「断絶」は明白である。なかでも道徳教育の「断絶」は著しく、戦後の戦前に対するまなざしは、むしろ「断罪」に近い。
 私たちは、戦後の道徳教育の方が戦前の道徳教育よりも「まとも」だと感覚的に思っている。しかしそれは、明らかな「思い込み」であり、「幻想」である。戦後に出版された道徳教育関連の文献が戦前の水準を超えているとは到底思えないからである。そもそも、戦後の道徳教育研究が、戦前の道徳教育を感情的に「断罪」することから出発したために、戦前までの道徳教育を学問的に検討する姿勢を決定的に欠落している。これは、学問研究としては「正常」ではないし、致命的な限界を抱え込んでいたことは明らかである。
 「歴史から学ぶ」という視座を欠いた「思い込み」と「幻想」の蔓延は、今や道徳教育に関する深刻な「思考停止」をもたらしている。歴史と学問研究に目を塞いだ道徳教育論議は、安易なイデオロギー論に振り回され、必然的に「賛成か、反対か」といった二項対立の図式に回収されてしまった。学問的な理論を欠いた堂々巡りの「空中戦」が常態化する中では、道徳教育の本質に関わる「まとも」な論議はほとんど例外なく除外されてしまっている。
 『文献資料集成 日本道徳教育論争史(全III期・全15巻)』は、戦前と戦後との「断絶」を超え、「歴史から学ぶ」という観点から、今後の道徳教育を考えるための文献を提示した。具体的には、明治はじめの「徳育論争」から修身教育改革論、戦後教育改革から「道徳の時間」(1958年)の設置や「期待される人間像」(1966年)を経て、道徳の教科化へと至る歴史の歩みを15の「論争史」として構成し、その代表的な著書・論文を数多く収載した。
 本文献資料集成には、近代教育の出発から今日に至るまでの道徳教育の歴史と論点がほぼ網羅されている。ここに収めた文献を多角的な視野から検討し、冷静かつ実証的に分析することは、これまでの「思考停止」から脱却し、新たな道徳教育の展望と地平を切り拓くことに資するはずである。『文献資料集成 日本道徳教育論争史』の刊行が、不毛なイデオロギー論を超えて、道徳教育を活発な学問研究の対象とするための礎石となれば幸いである。

推薦のことば

歴史の中の論争を通して道徳教育の本質に迫る
森田尚人
(前教育哲学会代表理事・元中央大学教授)
 冷戦のさなかに学生時代を過ごした世代にとって、道徳教育は政治的な争点としてイデオロギー批判の対象であるか、それとも、教育学にとってさして重要でない問題として見ない振りしてやり過ごすかのどちらかであった。ここ数年ほど学生の体験を聞いて思うのは、公立学校における道徳の時間には依然として五五年体制が続いているのではないかということである。歴史に眼をふさいだ「安易なイデオロギー論」か、深刻な「思考停止」が、いまなお教育現場と教育学界を広く覆っているのである。
 貝塚茂樹氏の鏤骨の作品である『文献資料集成 日本道徳教育論争史』は、そうした道徳教育の現状に対する危機意識から産み出された、そのために貝塚氏は本集成を構想するにあたって、二つの視点を交錯させようとしたように思われる。ひとつは、どこまでも歴史研究として、近代日本の道徳教育の歩みを客観的に追認しようとする学問的姿勢である。戦後の道徳教育研究は、戦前の道徳教育を感情的に「断罪」したにすぎないからである。いまひとりは、道徳教育の歴史を「論争」として再構成することである。「何か善で何か悪か」という存在論的問題と関わる道徳の問題を、今日の高みから一義的に評価することは傲慢にすぎるだろう。かつて時代の課題と向き合った論争を通して、今日の道徳教育のあり方を考え続けることこそが求められているのではないか。
 プラトン『メノン』は「徳は、人に教えられるのか」という問いを主題にしたものだが、ソクラテスは議論のはっきりした結論を示さないままに、われわれを置き去りにしてしまう。道徳が教えられるものならば、それは知識でなければならない。しかし、人はそうした知識を学んだからといって有徳な人物になるわけではない。本シリーズを通して、道徳教育とはこうした問いを、制度化された学校のなかで行わなければならないという、二重にも、三重にも困難な仕事であることを自覚したい。

近代日本が辿った自己葛藤史
潮木守一
(名古屋大学名誉教授・桜美林大学名誉教授)
 人間は群れのなかで生まれ育つ。群れの生活は便利でもあるが、しばしば対立・葛藤も生まれる。こうした対立防止のために「群れとしての決まり」が作りあげられ、それが「しつけ」の基礎となった。
 日本は19世紀後半、海外から押し寄せる植民地化の圧力に対抗するために「国民国家」として自己を形成しなければならなかった。その時、国民統合の主柱となったのが天皇制で、明治国家は立憲君主制という国家体制を選ぶことを通じて、国外からの圧力に対抗しようとした。それと同時に、「しつけ」は群れの範囲を超えて、国家次元での「国家道徳」へと再編成されることとなった。それ以来、しつけと国家道徳との融合・統合が日本の道徳教育の課題となった。
 第二次世界大戦で敗北を喫した日本は、立憲君主制に代わる主権在民の民主制を選択したが、東西冷戦のなかで、その国家目標はしばしば揺れた。戦後民主主義は個人の自由を強調したが、それは同時に「アプレゲール的自由奔放主義・刹那主義」を生み出し、それと対決しなければならなかった。同時に冷戦構造下での西側陣営の一員として再建した日本は、共産主義陣営から発せられる反資本主義的思想とも対決しなければならなかった。さらに近年にいたっては、グローバリゼイションの進行のなかで、国境を超えた個人主義、私主義の台頭のなかで、改めて「人としての在り方」を再考しなければならなくなった、
 こうして過去一三〇余年間、日本の道徳教育は近代国家としての自立、立憲君主制の旅立、民主主義の徹底化、資本主義か社会主義かの選択問題、さらには私主義の台頭といった濃密な時間を体験してきた。これは近代日本が辿った自己葛藤史であり、この度刊行される『文献資料集成 日本道徳教育論争史』を通して、それぞれの時点で、どのような論争が戦わされたかを振り返ることを通じて、我々自身の自己形成史を見つめ直すことができる。


ここから戦前と戦後の道徳教育の真の対話が始まる
押谷由夫
(昭和女子大学大学院教授)
 今日、ほとんどの国民は道徳教育を何とかしなければならないと考えている。しかし、効果的な方法が見いだせないでいる。ではどうすればいいのか。歴史に学ぶべきである、戦後の道徳教育は不幸な歴史を背負っている。それは戦前の道徳教育の全面否定から出発したことである。そもそも道徳教育は、国づくりにおいて重要な役割を果たす。当然のことながら、一人ひとりの人間形成においても不可欠である。道徳教育を抜きにした国家も個人もありえない。明治の人々は、そのことに気づき、真摯に議論を交わし、我が国独自の道徳教育を打ち立てた。それは外国からも高く評価されるものであった。
 しかし、国づくりが誤った方向へとつき進むにつれ、道徳教育もまたその方向へと進んでしまった。そのことは深く反省しなければならない。そのうえで、どうして誤った方向に行ってしまったのかの分析も含めて、真摯に交わされた道徳教育論議に耳を傾ける必要がある。それは、今日の日本の礎を創ってくれた先人が、この最も根源的で重要な教育課題に、時代と格闘しながら正面から向き合い、苦悩しつつ知恵と成果を紡ぎだしてきたプロセスが刻されているからである。そこは、現在においても宝の山なのである。
 このたび、日本の道徳教育史研究の泰斗・貝塚茂樹先生が、万感の思いをもって編纂されたのが『文献資料集成 日本道徳教育論争史』である。本編纂書によって、戦後の道徳教育において積み残してきた最も大きな課題である戦前の道徳教育との真摯な対話が可能になる、それは、道徳教育の本質を明らかにすることにもなるし、混迷の度を深める現在の道徳教育に光明を灯すとともに、再び世界へと発信していける道徳教育を構築していくことにもつながっていくであろう、これからの教育の在り方に責任をもつ人々に必読の書として本編纂書を推薦する。

教育学研究の新たな地平を拓く資料集成
沖田行司
(同志社大学大学院教授)
 私たちの先人は、「学び」や「教え」というものを、「人となる」もしくは「人となす」というように、人間的な成長と深く結びつけて理解してきた。とりわけ徳の形成は、学問や教育の大きな目的と考えられてきた。ところが、明治以降の教育の近代化は、西洋の知識の獲得と、日本人としてのアイデンティティーの確立という二つの方向に教育課題を分化し、いわゆる知育と徳育という二項対立的な課題を作り出してしまった。この問題が最も先鋭に論じられたのが、明治十年代の徳育論争である 明治の知識人たちが徳育論争を日本の近代化におけるもっとも大きな教育的課題としたのは、国境を越えて受け容れた知識は、西欧社会においては、聖書を基盤とする深いキリスト教道徳を前提としていたことを知っていたからである。この徳育論争は、「教育に関する勅語」の発布によって、ある意味においては深められることなく、終息する形となった。その後、道徳と教育の問題は絶えず浮上しては閉じられるという過程を繰り返してきた。
 戦後教育の出発にあたり、道徳教育は日本の軍国上義のイメージと重ね合わせて論じるという、イデオロギー解釈がほどこされてきた。このために、道徳教育は教育学研究の場ではなく、常に政治的な次元でしか論じられてこなかった。このような日本の教育における「未完の近代」は大きな教育問題が生じると決まって呼び起こされるが、すぐさま戦後教育の呪縛によって閉じられてしまう。このたび、文献資料集成として『日本道徳教育論争史』が刊行されるが、ここで取り上げられている個々の文献資料の選択そのものが、監修者である貝塚茂樹さんの研究者としての確かな視点と豊かな議論を再生する方向で編まれていることが窺われる。私たちが直面している現代日本の教育問題を、根底的に問い直す研究資料として、刊行の意義は計り知れない。

道徳教育探求史としての「論争」史
森川輝紀
(元教育史学会代表理事・福山市立大学教授)
 「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育」(旧教育基本法)を、私は、これが戦後教育の理念であると理解している。(現教育基本法では「真理と平和を希求する」は「真理と正義を希求し」と改められている。私は「正義の戦争」という使用例を連想してしまう。)戦後教育理念の「不明」論、戦後と戦前の「断絶」論に道徳教育の「停滞」をみる立場とは異なる。「断絶」する歴史などありえようはずがない。「断絶」という認識も「連続」の一つの理解であるにすぎない。それゆえに、戦後の道徳教育史を「停滞と再生」として把握することはできない。私は創造的な道徳教育探究への道であったと理解している。
 私は道徳とは「生きることの意味を問うこと」と考えている。人が生きている事実は、道徳的判断をし、実践(経験)し、満たされぬ思いを更に追求していくことであると思う。それは無限のプロセスであり、その主体を形成する教育的営為を道徳教育と考えている。したがって「生きることの意味」を問うことは多元であり、その主体は一人一人にある。それゆえに道徳教育の存在自体が論争的であるといえる。道徳教育史に多大な研究蓄積を有する畏友貝塚茂樹さんが関連文献を整理し、論争史として編集されたこの第III期全5巻を、私は戦後における創造的な道徳教育に向けての軌跡として読んでみたい。脱イデオロギーがまた新たな固定されたイデオロギーであってはならない。創造に向けての柔らかい相対的立場において、それぞれの「論争」がどのように道徳教育の問題性・課題性を論じているのかを考えてみたい。その意味で、欠くことのできない資料集成である。


道徳教育の空洞化と社会の迷走から脱するために
松下良平
(金沢大学教授)
 戦後の日本人にとって道徳教育は躓きの石であった。忠君愛国の理念に支えられ、人びとを戦争へと導いた戦前の道徳教育を否定するあまり、道徳教育そのものを見失ってしまったからである。道徳教育に賛成か反対かという議論にかまけているうちに、道徳教育は秩序維持のために心や行動をコントロールする術へと痩せ細っていった。あるいは、工業化を推進し、ひたすら経済成長を追い求めるあまり、道徳教育はもっぱら勤勉と従順を強いる教育に成り下がっていった。
 道徳とは本来、社会の最も基本的な礎である。幸福、正義、自由、平等、権利、義務、福祉、配慮、責任、連帯、抑圧、解放、生、死、平和、戦争、等々は、いずれも道徳思想のテーマである。そのため、道徳を無視する社会は必ずや迷走し、やがて滅びるであろう。それらについて練り上げられた思想や理念をもつことなしには、社会を維持することも変革することもできないからだ。
 学校教育で扱うべき道徳とは何かという問いを教育勅語という絶対解の前で封じられてきた戦前と、そのような問いを無視してもやっていけるとうそぶいてきた戦後は、道徳教育への思慮の欠如という点でつながっている。その一方で、戦前と同様、戦後においても、無思慮な大声に抗った人びとがいたことも事実である。その両面をつまびらかにしてくれるこの文献資料集成を手がかりにして、躓きを糧とし、道徳教育の空洞化からの脱却を試みる人が増えることを願ってやまない。

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